アフターシンギュラリティの世界を生きる人へ
シンギュラリティ(技術的特異点)は近いと言われている。
技術的特異点 - Wikipedia
技術的特異点(ぎじゅつてきとくいてん、英語:Technological Singularity)、またはシンギュラリティ(Singularity)とは、人工知能が人間の能力を超えることで起こる出来事とされ、テクノロジーが急速に変化し、それにより甚大な影響がもたらされ、人間の生活が後戻りできないほどに変容してしまうとする .
僕ら大人達は、恐れている。
しかし、我らが子供達は、シンギュラリティを必ず迎える。
子らには、それを乗り越えた先の世界で生きる強さを持って欲しい。
シンギュラリティを超えた先の世界に生きる人たちに、生きる強さを教えることは
大人の責任じゃないだろうか。
そもそも特異点など恐れることはない、いままでもコンピュータの方が僕らより頭がよかった。
10年前に書いた恥ずかしい日記を僕は忘れているが、コンピュータは覚えている。
僕らの声は、せいぜい100人にしか届かないけれど、コンピュータとネットワークを組み合わせると1億人にだって届けることができる。
僕らは、100ほどの計算をしたら頭が疲れてくるけれど、コンピュータは1秒に100万回計算してもへっちゃらだ。
そういう意味じゃあ特異点はすでに経験してるともいえる。
未知の何かに怯えるのは人間の性だけど、コンピュータが起こした大革命ならすでに経験してるじゃないか。
それはインターネットが革命を起こす前夜を思い出せばいい。
インターネットが多くの職を奪うだろうといわれた。
実際そうなったが、それ以上に多くの職が生まれた。
インターネットが出てきた時には、すでに人間はコンピュータに能力的に超えられているけれど、僕らは恐れてはいない。使いこなすべき対象なだけだ。
AIが発達したとしても、コンピュータが苦手な分野がある。
例えば子供だ。
子供向けの教育をして、自分自身も親になってわかった。
子供は論理のかけらもなく、合理性なんか無視の究極のカオスだ。
愛情がなければ、関わるのもめんど臭いだけの非合理の塊。
でも、可能性の塊でもあり、多かれ少なかれ愛を感じざるを得ない存在だ。
愛を理解できるコンピュータができるだろうか。
できるなら、それはそれで希望にあふれている。
コンピュータが非合理性を理解して、非論理的に動きはじめたときに
初めてコンピュータは人間を超えるかもしれない。
しかしながら、そうなってしまうと我々にとってその存在とは、
とても論理的で融通が利かないけど、ある意味愛するべき友人という扱いになるのではないだろうか。
だったら、僕は酒をのみながら愚痴を言い合いたい。
僕は、シンギュラリティの先に、ターミネーターやスカイネットの存在を感じるよりも、
ドラえもんや、攻殻機動隊のタチコマの存在を感じるほうだ。
人が作るものだから、驚異というよりも希望なのだ。
そんな世界なら恐れることはないだろう。
それが完成だとしたら、僕らが生きているうちには来ないかもしれない。
シンギュラリティ以降も、しょうもないバグに悩まされそうな気配はプンプンする。
しかし、そういった超越していながらもまだまだ不完全な世界において、我々の子供達は生きなければならない。
だったら、ドラえもんに道具を出してもらう方法を知ってる子供を育てたい。
できれば、多くの人がのび太になってほしい。
道具を求め、課題を提示した時にはじめてドラえもんは、役に立ってくれる。
ドラえもんへの頼み方を知ろう。子供達にそう教えたい。
スマートフォンは、とても身近なコンピュータで、接する時間もながい。
だけど、その機能を使いこなせる子と、そうでもない子がいる。
それが経済格差になってしまう可能性もある。
だったら、それこそ教育の出番じゃないだろうか。
シンギュラリティを超えた世界A.S.0001年を生きる人たちを育てる教育。
しばらく、我々大人たちはそういったテーマで子供の教育に向き合わないといけないだろう。
それこそシンギュラリティを超えるころまでの。